インフルエンサーに夢みる&何ものかになろうとする苦しさ


凡夫が何者かになろうとすること、すなわち「比較の輪廻」から抜け出せない状況に陥ります。

「比較の輪廻」とは何か
誰かに注目されようと思えば、誰かより成績を上げる必要が少なからずあるわけで、それが何より辛いわけです(理想を抱くと自身の現実を知った時のギャップのダメージが大きい)

何者かになろうとしてなるのではなく、自分がなにかに熱狂して熱中し続けた結果、人より突出した存在にいつの間にかなっていた。くらいのほうが健全なように思います。

有名になると、どこかで落とし穴もある(しかも支持者が多いほど1つミスるだけでも深い落とし穴に)

しかし、その先、多少有名になってからも実は罠があって、最初は好きでやっていたのに、いざ人から認められるようになってしまうと、「承認欲求」の飢えが出てきて調子に乗るようになってしまうのです。承認欲求こそ一番人を狂わす麻薬のようです。(ここで承認欲求に溺れず10年20年続けれるとヒカキンさんになれますが、1億2,000万分の1レベルです。だから大抵の人は、いずれ承認欲求に溺れる前提くらいに捉えても大袈裟ではない気がします)

「他人の目」「大勢の評価=数字」を求めてコンテンツを発信することに力を入れるようになるとオワリノハジマリ。

その時点で自分の本来やりたかったことから、かけ離れたナニカになってしまう。仮に数字をとれたとしても、それはまるでピエロかのように。

SNSを閉じて、日々の素晴らしき自分の人生を肯定して生きよう

平凡こそ個々の生き様があるはず。各々の大切な人生の役割があるはず。日々の素晴らしさに目を向けず、インフルエンサーに憧れ、なろうとすればするほど、辛い。

もしインフルエンサーじみたことをやっても、オーディエンスは理想を抱くから、自分もオーディエンスにとって理想の存在のように振る舞わなければならない。

ニーズにマッチさせなければならない。それは結局のところ、本来の生き様を捨て、虚像、偶像へと進んでしまう救いようのない道なのです。

そもそも、人それぞれ割り振られている「役割」という意味では大小優劣はありませんが、メディアという拡声器のせいでインフルエンサーという役割が巨大な何者かにみえるけども結局同じ人であることに変わりはないのです。

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